なぜ耳は二つなのか

教授 濱田 幸雄

     なぜ耳は二つなのか?音を研究する者にとって興味ある命題である。そこで前半は進化生物学の知識を 借りて,後半は最近手にした面白い本1)を参考に解剖学の分野から耳のことを考えてみたい。  進化生物学の知識を借りれば,私たちの耳が二つあるのは,そもそも人類の祖先である初期の魚類の鰓 (えら)が左右対称についていたことに始まる。なぜ鰓は左右対称に存在するのか?生物は食べ物を求め て動かなければならないから。まっすぐに泳ぐためには,体の中心に軸があり左右対称の形をとるのが最 も効率的であることから感覚器官なども同様に進化した。この軸,つまり脊索を持ち約5億年前の古生代 カンブリア紀中期の海を泳いでいたのが『ピカイア』と呼ばれる原始的脊索動物である。ピカイアの脊索 はヒトの脊椎に進化するが,もうひとつ重要な器官,顎がこの鰓の一部から進化した。こうして,人類の 祖先は獲物に食らいつくという生き方ができるようになり,効率的にエネルギを得られるようになった。 しかしながら,魚において耳に相当するのはよく知られているように,側線と呼ばれる器官である。この 側線の一部が渦巻き状に変化して,哺乳類の内耳を構成する蝸牛になった。  音を知覚する耳が顔の左右に一つずつあることのメリットはどのようなことだろうか。まさに空間情報 の把握である。左右の耳に到達する音の時間差から,私たちは音の到来方向を大まかに判断することがで きる。ヒトの場合は,音の到来方向に視線を素早く向けることにより,音源定位の閾値が1度程度と哺乳 類の中で最小値を実現している。第2のメリットはカクテルパーティー効果への貢献である。カクテルパ ーティーのように多数の話者の音声が混在している状況の中で,希望する話者の声を選択して聞くことが できることからこの名前が付けられた。この効果が生じる要因として,両耳聴によって知覚される音源の 空間的位置(方向と距離)の違い,音色など音源そのものの特性の違い,また音声の場合は話者の口の動 きなどの視覚的情報などが関係している(日本音響学会編,新版音響用語辞典,コロナ社より)。両耳聴 が私たちの生活にもたらす貢献として,音源分離の促進,空間的注意,マスキングの低減効果が挙げられ る。特にマスキングの低減は,うるさいところでの会話を可能にするなど重要である。  次に,聴覚器官である耳について,さらに解剖学の分野から見てみたい。三木成夫という解剖学者がい た。東京大学医学部助手を経て,東京芸術大学で「生物学」「保健体育」の授業を担当していた。解剖学 者というより,最近では思想家・自然哲学者として評価が高い。三木先生はヒトの体を大きく2つに分け て理解しようとした。「植物性器官」と「動物性器官」である。説明は以下の通りである。  「植物性器官」は「内臓」など栄養やエネルギを補給して生きる力とする働きをする体の部分,  「動物性器官」はその体を餌に向かって動かし,またそのために「世界を知覚する」,  その眼,耳や脳を指す。1)   三木先生は動物性器官をさらに3つに分類する。「感覚系」「伝達系」「運動系」である。続けて,  「生物は,まず視覚,聴覚などの知覚器官によって外部からの情報が入力され(感覚系),それが神経 を伝わり脳で情報処理され(伝達系),それらがさらに筋肉,骨へ情報が伝わり,骨や筋肉による体の動 き(運動系)となり,動物としての「動く」体となる。」1という。  ヒトの体の部位で,唯一動物性器官と植物性器官が同居する箇所がある。「顔」である。「顔には,生 命進化の痕跡が全体の縮図としてある。そのため,「ヒトがヒトを見るとき,「顔」に視線が向かい,顔 がそのヒトの全てを象徴するものとなる。」1)という。また魚の首に相当する箇所に「鰓」があるが,こ の鰓の働きをコントロールすることを起源に発生したのが延髄である。生きるための基本である呼吸,栄 養の吸収などをコントロールする部位である。ヒトの顔の表情筋,喉の声を出すための筋肉は鰓が起源で あるので,今も延髄がこれらの筋肉をコントロールする中枢である。つまり,ヒトの表情や声は延髄の反 応なので,私たちは他のヒトのわずかな表情の変化や,言葉に大きく心を揺さぶられるのかもしれない。  画家はヒトが見せる一瞬の表情を捉えてキャンバスに残そうとする。産声に始まり,ヒトの祈り,癒し, 喜び,悲しみは声によって多くのヒトに伝わった。直立歩行は,ヒトの上肢を前足という役割から解放し, ヒトは器用な動きを手に入れた。人類の発生とともに歌が生まれ,器用な両手は楽器の演奏を可能にし, 私たちの生活と心を限りなく豊かなものにした。  最後に三木先生の言葉を記します。  『すぐれた言葉の形成は,豊かな内臓の感受性から生まれる』
1)布施英利著,ヒト体5億年の記憶 からだの中の美術館,光文社未来ライブラリー,2024)