半世紀という時間
教授 鈴木 晃
◆武蔵野の本宅に夏みかんの木がある。小学校低学年のころ,縁側から種をペッと吐き出したものだ。
数年前から,大量に実をつけるようになり,一昨年は1,500個ほどの豊作だった。最近ではそれをねた
にして,年に一度本宅の一大イベントが挙行される。小学校の同級生も含めて延べ30人近くが,ある
者は高枝鋏や包丁持参で,三々五々出入りする。収穫して,搾りたての夏みかんで割った焼酎を飲り
ながら,ママレードをつくる。夏みかんは50年ほどで最盛期を迎えるのだそうだ。
◆現在の大学生が高齢者となる頃の日本,65歳以上が4割,75歳以上でも3割近くを占める。高齢者の
住まいも大きく変わるのではないか。現在その量的不足を一部研究者から批判されているサービス付
き高齢者向け住宅。介護人材不足が進む中,それが存在し続けるのか極めて不透明だ。外国人労働
力をあてにするよりも,自立支援ロボットの技術に期待する方が現実的だろう。高齢者の住宅はその
技術も駆使して,「自立する場」という住まい本来の姿に立ち返る。
◆半世紀というスパンではないかもしれないが,住宅以外の建築物はさまざまな技術革新によって世
の中から消えてしまう可能性がある。診療方法の転換によって病院が不要になり,情報媒体の変革で
図書館がその大半の機能を失う,というのは想像できない世界ではない。住宅だけは将来とも,人類
が生存する限り存在し続ける。それぞれの住宅は少なくとも半世紀ぐらい先を見越して建てられる必
要があるのだろう。
◆篠原一男作品のなかに「朝倉さんの家」(1966)がある。当初計画案は発表されたが,竣工時の図
面・写真は作品集がまとめられるまで,なぜか未発表のままにされていた。そんなこともあって,舞
台美術家・朝倉摂の家が篠原の「朝倉さんの家」であることを,私は一昨年まで知らなかった。理工
学部の本杉省三先生からそのことを知らされたことがきっかけで,昨年,朝倉アトリエに出向いた。
朝倉は3年前に,また夫の富沢幸男も2年前に亡くなられ,アトリエ兼自邸は従前の住み手を失ってい
た。だがそこはまさに「生きられた家」であった。そこにある二人の人生の痕跡は圧倒的だった。そ
の記録のため,結局三度,朝倉邸を訪れることになった。
篠原は「住宅設計の主体性」(『建築』1964.4)の中で,施主のために設計してはいけないと述べ
ている。施主がその住宅をどう使おうが勝手だが,竣工時は建築家の作品としてその空間を自ら演出
しメディアをとおして社会に持ち出すべきとする。「虚構の空間」であり,住宅は芸術であると
いう主張だ。篠原作品を評論し,その写真を撮影した多木浩二は『生きられた家』(1984,青土社)
で,住むということの本質,住み手と住まいの相互性,住宅のなかの時間の問題を論じた。私が建築
家を志すきっかけとなった篠原の「虚構の空間」は,ちょうど50年という時を経て,そうなれなかっ
た私の前に「生きられた家」に姿を変えて現れたのだ。すべての登場人物は居なくなったが,住宅だ
けが50年という時間をかたちにして存在している。
ちなみに篠原が存命中は,その鉄壁のガードによって実像が世に流出することはほとんどなかった。
没後はそのタガは緩みはじめた。旧篠原研の方々は,恩師の「虚構の空間」の実像が世に出ることを
憂い憤っている様子だ。「生きられた家」の私の記録は,そういった事情もあって世に出せない。
◆信州に妻の祖父が建てた山荘がある。叔母が引き継ぎ丁寧に管理してきた。その叔母も80歳を超え,
その思いどおりにはできなくなった。工学部にお世話になる前年は勤務すべき場所もなかったので,
私が管理人を買って出た。春から秋までかなりのときをそこで過ごした。近所にペンションがあり,
居心地のよい食堂で丁寧な料理が提供されるので,一人でもよく出かけた。本宅の夏みかんを大量か
つ丁寧に消費してくださるという間柄でもある。
今春,そのペンションの主人から連絡を頂戴した。「杉本さんという方からの突然の電話で『近所
に〇〇邸という古い別荘はないか』という問い合わせだったが,これはそちらのことではないか」と
いうものだ。杉本茂さんは東京家政学院大学名誉教授で,中原暢子(林雅子・山田初枝と設計同人を
主宰)の遺作の整理をされているという。その作業中当地に計画案(1961)が存在したことを見出し
た。グーグル・マップで住宅の存在は確認したのだが,それが中原作品なのかまでは分からない。そ
れで近所のペンションに問い合わせたのだ。祖母から叔母へと丁寧に住みつないできた愛着のある山
荘(1964)。なぜ中原に依頼されたのか分からずじまいだが,突然の話題は叔母を含め私たちにこの
家にまつわる50年を呼び覚ました。退職後は管理人業務に専念しようかと思っている。
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