プロになるむずかしさ

教授 出村克宣

 ある会合で,元気な学校のあり方が話題にのぼったので,次のような二つの話を紹介した。  同じ業種の自社ビルを持つ,二つの会社がある。その二社を訪ねて,それぞれのビルの階 段を上っていった。一社のビルでは,出会う人・出会う人から「こんにちは」と挨拶される。 もう一方のビルでは,出会う人々は無言で通り過ぎるという。しばらくすると,挨拶のなか った会社の業績が悪化し,一方の会社は業績が好調であるという。  校内が荒れている学校があった。そこで,ある教員が正門に立って,毎朝「おはよう」と 生徒に声をかけ始めた。しばらくすると笑顔で答える生徒が増えた。それを見て,他の教員 も同じことを始めて,一年も経つ頃には,活気ある学校に変身していた。  一流のスポーツ選手には,明るい性格の持ち主が多いという。明るい人はドーパミンの分 泌が活発で,このホルモンは「やる気物質」とも呼ばれているそうである。  新入社員でも人事評価をしなければならない。その時上司は何を基準に評価するのか? 挨拶,上司への伝言やレポートに誤字・脱字がないか,漢字があるのにひらがなになってい ないかなどである。理由は,新入社員に業績を求めても無理なことと,社会人としての規範 は言葉遣いと日本語に現れるからである。  今,学生諸君は,専門分野について多くのことを学んでいる。しかし,伝えきれないこと も多い。  その昔,大学卒業したての現場監督が,図面片手に排水管の高さを測っていた。すると, 図面と異なる高さの配管部分があった。そこで,水道屋さん(配管屋とも呼ばれていた)を 呼んで,そのことを指摘すると,水道屋は,「あなたの言うとおりに配管するよ」といって, 手直しを始めた。しかし,作業が終わって水を流してみると,流れないところがあった。  水は高いところから低いところに流れる。それを一箇所の排水溝に集めるには,いくつも の排水管を立体的に捕らえて,それぞれの高さを決めなければならない。当時は,現場でベ ニヤ板に配管の立体的な施工図を書いて,個々の排水管の長さと高さを決めていた。水道屋 さんは,排水管を繋いだ後の立体的な連続性を頭の中で描くことができている。しかし,そ の若い現場監督は,そこまで考えが及ばなかったのである。  また,ある時,新しい壁塗材を開発したので,左官屋さんに施工をお願いした。すると, 考えてもいない方法で施工し始めた。そこで,「材料の取り扱い方が違う」と指摘したら, それなら自分でやれと怒られた思い出がある。ごめんなさいと謝って,壁を作るという目的 だけを伝えたら,思いもよらない素晴らしい壁が短時間で出来上がった。左官屋さんは,そ れまで触ったこともない新しい材料の特性を瞬時にとらえて,それに見合う施工法をその場 で生みだしたのである。プロの現場では,机上の理論だけでは解決できないことも多い。  最近,そのような「屋」のつく職業が少なくなったのではないかという指摘を受けた。つ まり,様々な分野において,ある種の職人の技を持った人々が少なくなっているという指摘 である。専門職の伝承に時間が割かれていないのか,伝承されるべき専門職人が減っている ことが原因なのかもしれない。  工学分野でいえば,エンジニアに対する技術の伝承であり,教育そのものを指すことにな る。しかし,「○○屋」と呼ばれるエンジニアになるためには,長い時間と経験の積み重ね が必要である。大学での学習は,建築家,建築エンジニアとしての技を身に着ける入口であ る。  但し,「○○屋」というと,ある一つのことだけに長けていると勘違いしないでほしい。 実際には,多くの周辺技術や知識を身につけた上で,ある一つの事柄をこなしている。一を 知って一をこなすのではなく,百を知って一をこなすほうが,成される事柄の出来栄えが違 ってくる。経験に勝る勉強はないともいわれる。短時間で多くの経験を積むことは難しいと 思うが,学生諸君には,学生時代はもちろん,社会人になっても,専門分野に関してこんな 職人の技を身につける努力をしてほしい。  工学部卒業の社会人に対して,現在の地位,そしてそれを支える知識・能力はどのように 養われたかという調査結果がある(矢野眞和著,「大学改革の海図」,玉川大学出版部, Sept.2005,309p.)。現在の知識・能力とは,専門知識,基礎専門知識,語学,社会経済に 関する知識,対人関係能力,プレゼンテーション能力,マネジメント能力などを含んでいる。  そこには,『「大学時代の学習熱心度」が「卒業時の知識・能力獲得」を媒介として,間接 的に「現在の地位(所得など)」を向上させている。激しく変化する環境の中で技術者が生 きていくためには,常に新しい知識・能力を向上させていかなければならない。その過程で 重要なのは,大学時代の学習経験である。』と述べられている。つまり,大学において専門 知識を学ぶことはもちろん,その学びを通じて学習の習慣を身に付けることが重要である。 (工学部長)