ハーメルンの笛吹き

教授 若井正一

 昨年夏,人間環境系の国際会議に参加するため,ベルリンの壁が崩壊して20 年目の節目となるドイツへ出張した。開催地は,ザクセン州のライプツィヒ市であった。同市は,人口が約52 万人の旧東ドイツ第2 の都市である。市中心のマルクト広場周辺には,かのバッハが音楽監督をしていた聖トーマス教会や,世界的に知られたオーケストラホールの「ゲヴァントハウス」などがある。また,同市内は,路面電車が走り,古い町並みの中に近代的ビルが混在する新興都市である。国際会議場は,ライプツィヒ駅前から路面電車で約20 分のドイツ環境省の研究施設であった。開催期間中,世界各国からの参加者たちによって熱心な発表や討論等が行われた。恒例のオープニングセレモニーは,重厚な石造りのライプツィヒ市庁舎内で行われた。当市長が来賓挨拶の中で,20 年前の東西ドイツの統一は,ライプツィヒの市民運動がきっかけとなったことを熱く語っていたのが印象的だった。なお,ドイツ初の女性宰相となったメルケル首相は,ライプツィヒ大学の卒業生である。
 私は,今回のドイツ出張の際に,ぜひとも訪問したい場所があった。そこは,ライプツィヒ市から車で約1 時間のデッサウ市にある世界文化遺産の「バウハウス」である。私がバウハウスに関心を持ったのは,東京国立近代美術館で開催された「バウハウス展」を観た学生時代の頃からであった。その展示の中で,建築や工芸デザインの作品とともに,前衛的な創作舞踊が紹介されていたことなどが,ずっと気になっていた。
 バウハウスは,1919 年に,建築家のワルター・グロピウスらによってワイマールに創立された建築,工芸,写真,デザインを総合的に学ぶ国立の造形芸術学校であった。1925 年にデッサウに移築されたが,1933 年にナチスにより閉校となった。この間,わずか10 数年間であったが,多くの建築家や工芸家を輩出した。閉校後、校長のミース・ファン・デル・ローエは,アメリカに亡命してモダニズム建築の先達として活躍した。
 初めて訪れたバウハウスの校舎は,予想していたよりも小規模な建物で,創建当時のままに保存されていた。校舎内には,当時使用していた家具や照明器具などが残され,前衛的な舞踊などを発表したステージや舞台裏を観ることができた。校舎近くには,グロピウスやカンディンスキーらの教員住宅が当時のまま保存され,それらの一群の建物施設が1996 年に世界文化遺産に登録されている。
 さて,ドイツ内陸には,メルヘン街道といわれるグリム童話ゆかりの諸都市がある。有名な「ブレーメンの音楽隊」のように地方都市を舞台とした多くの民話がある。その中にグリム兄弟が伝承を記録したという民話「ハーメルンの笛吹き」がある。この民話は,ドイツ北西部にある小都市ハーメルンで1284 年にあった史実をもとに伝承されている物語で,その内容は,次の通りである。『当時,ハーメルンにネズミが大量繁殖して家々の食料などを荒らして,町の住民が大変困っていた。そこに「ネズミ捕り」を名乗る男が現れた。町の住民は,その男にネズミを退治したら大金を支払うことを約束して依頼した。すると,その男が,笛を取出して吹き始めると,町中にいた
ネズミの群れは,その笛の音に惹かれて町の外にある川の中へと入って消えてしまい、一匹もいなくなった。その男は,町の住民に約束の大金を求めたが,支払いを渋ってわずかのお金しか渡さなかった。怒った男が,再び笛を吹き始めると,今度は町中の子供たちがその笛の音に誘われてその男とともに町の外にある洞窟の中に入って消えてしまい,二度と町には戻って来なかった。』
 この民話は,町中から子供たちがいなくなるという悲しい結末の物語である。子供がいなくなった親たちの嘆きは,如何ばかりであろうか。その史実に関しては,当時流行した疫病説や集団移住説など諸説があるようだが,定かではない。
 私は,このドイツ民話と原発事故で避難している福島の子供たちが,なぜか同じように思えてならない。本年3 月11 日に発生した東日本大震災では,地震や津波で約2 万人の命が奪われた。そして,福島の原発事故は,いまだ収束する気配がない。そんな中,ある学会で被災地からの教訓と題して調査報告を行ったが,目の前で肉親や家屋を失った悲惨な現実や福島原発事故の汚染実態を知るにつけ,あえて言葉にすることがとても空しく感じた。願わくは,フクシマに鳴り響く警笛が,一刻も早く止まって,いつもの当たり前の日常が戻ることを祈るばかりである。