『自己研鑽』

教授 倉田 光春 

 諸君は,天才ではない。一度講義を聴いたからといって,その内容を理解できる訳は ない。出来たら天才だ。予習,復習しなかったら,尚更である。「そういう事か」と分 かった気分になることは出来ても,埋解し,使えるようになるのは至難の技である。時 問と忍耐が必要だ。黒板の内容を写しもせず,メモもとらないなんて言語道断である。 失礼である。恐らく,その者は悲しいくらいチンプンカンプンであろう。  「今日は,学生,少ないね」  「平面図の提出で・・・」  「時間,十分にあっただろう」 「ウーン!君たちは大変なのだ」  「それでは,この問題を解いてみなさい」  「反力を計算し,応力を求めなさい」  「計算は図解しながら,結果は応力図として画きなさい」  「図,計算は,ゆっくり丁寧に」  「わかりません」  「ノート出してごらん!なに,書いてない」  「まず,写すこと!その繰返しだよ!」  「友達のノートを借りて、写しなさい」  「どれ!どれ!ウーン!」  「アッ!ちゃーんと写してないよ」  「図,式には,意味があるのだ」  「友達代えたら!前の席,空いているぞ」  「黒板もはっきり見え,ちゃーんとした友達もいるし,良いこと尽くめだぞ」  「・・・・・・・・・・・・・・」  「友達には,ちゃーんと,お礼をしなさい」  「オイ!この図,可笑しくない!図学,製図で習ったのだろう」  「図学,製図でも,こんな図を画くの?」  「いいえ,描きません」  「私の授業を,軽く見ていないだろうね」  「そんなことありません」「どうして?」  「定規を使って画くのですか」  「何いっているのだ」  「フリーハンドでいいから,ゆっくり丁寧にわかるように画きなさい」 「私が後で観るのだから」  「鑑賞に堪えるように!失礼だろ」  「恋人がみたら,一遍に冷めちゃうぞ」  「それでも良い!ホントか!」  「なに,いない!悲しくないかい」  身のまわりの自然は,移り変わり,繰り返す。自然は形と現象(動き)の存在だ。人間 はそれを写し,再現し,そして白然を利用した。利用できる有用な知識を体系化したも のが学問だ。簡単に言うと,図学は自然の形を写し再現する技,製図は創るための図法 である。微積分学,代数学は,自然の規象を写し再現する技である。微分学は,自然の 現象を写し,現象を微分方程式で表現する技である。積分学,代数学は,現象を再現・ 予測する技である。人間は,何千年と時問を掛けて自然を繰返し写し,磨いた技を型に まとめた。それが学間という技である。我々は,それを道具として便利に使えばよい。 使えればよい。道具は繰返し使い,使えば術光り輝くものである。  「図学,製図少しは学習したのだろう!」  「使いなさい!道具だから!」 「使わなきゃ巧くならないよ」  「道具は,路傍の石,でも磨けば君にとって大切なもの“カネ?”それとも“恋人?”,   それで別世界が見えるかも!拭しに麿いてみなさい!」  立体である自然を平面に写すことから始まった図学は,人間の思考を平面に描き,そ れを創る図法となった。縮尺寸法,原寸,部分展開図その組合せなど,考えながらの図 学は便利で楽しく,遊べる道具である。これが設計の「始めで終わり」の一歩だ。  「設計をしたい」  「やる気になった?道具を磨くかい?」  「ウーン!それでは毎日,一枚でも良い,建てたい建物の絵,図面を描きなさい」  「続けるのだよ!続けなきゃ」  「なに!やってみる!でも,ただ画けば良いというものじゃないよ」  「画き方があり,それは奥が深く,とても深い!掘ってみるかい」 「掘ってみる」  「ウーン!君は,穴を掘ってみたことがあるのかい!狭くて深い穴を掘るのは難しい!   天才なら出来るかも」  「深く掘ると周りが崩れてしまう」  「エンヤコラ!幅広く大きく掘らねばならないのだ!わかるかい!この意味」  「崩れたら,繰返す地味な作業だよ」  「それでも,やってみる」  「明るくやってみる」「そう」  「工学部の学生だね」                   (主任教授)