魔法の言葉

教授 浦部 智義

   私が工学部に赴任して15年が経とうとしている。大学で教員を本格的にやらせて頂こうと思った動機は 幾つかあるが,その一つに赴任前のある大学での非常勤講師としての体験とその後日談がある。当時,そ の大学で担当させて頂いていた科目の一つが2年生の建築設計演習(課題は,街なかのオフィスビルなど) であったが,いわゆる能力別クラス編成(前の学期の建築設計演習の成績等で振り分けられる)で,私は 指導経験の浅さや若くて体力はあることもあってか,建築設計演習に取り組む意欲が最も低いとされるク ラスを受け持つことになった。そのクラスは,案の定,出席率も悪くエスキスの進度も鈍い状況となり, 途端にクラス運営が行き詰まった。そうした状況を打開するために,諸先輩の先生方からアドバイスも広 範に仰いだが,出来る限り粘り強く向き合うしかない,というのが結論であった。  そんな時,関西出身である私が,子どもの頃から個人的に興味を引くような言葉をメディアで発言され ている人の言葉を思い出した。その人は,森毅(もり・つよし)氏。数学者であり,評論家・エッセイス トとしての顔を持つ。氏の数々の名言は,例えば『「できない子」に,何かを教えようとして,逆に君が, 彼から何かを学ぶことの方が,君にとって大事なことだ。』や『学びは人間関係の中に成立する。』とか 『正しさは伝染(うつ)らないけど,楽しさは伝染(うつ)る。』など,関西弁で肩肘張らずに,物事の見方 を変えてくれる様な語り掛ける名文句が多く,何となく私自身の肌に合うものが多かった。  もとい,冒頭の建築設計演習クラスの話。その言葉を胸に,逆に,出席していた学生とはたっぷり時間 があるので,長時間色んな話をする様に心がけた。建築そのものやデザインに興味を抱く手がかりを殆ど 持っていない彼らと,先ずはコミュニケーションを取る(人間関係を築く)ために,課題やデザインのこ とだけでなく,彼らの趣味や暮らし,さらには好きな食べ物や芸能人などについて,先ずは幅広く雑談を 楽しんだ。その内に,何だか自分が知らないことも多く,一緒に調べたりしながら,時に建築の話もした。 森氏の言葉を借りると,『論理的なことや正しいことばかり追わず,とにかく何でも面白がるようにして います。』という心境である。  そのクラスに所属していた何人かとは,今でも親しくさせてもらっている。その中の一人は,その建築 設計演習科目の2年後の卒業設計で評価され,著名な設計事務所でキャリアを積んで,現在,都内で設計 事務所を主宰している。もちろん,そんな今日の姿は,本人の努力による所が大きいことは言うまでもな いが,その目を見張る成長に微塵でも貢献できていたとすれば,こんな嬉しいことはないと感じていた。 その彼が大学を卒業し設計事務所で働いていた頃,酒を酌み交わしている時,彼に「先生と取り組んだ演 習クラスで,生き方が変わった気がする」と言われた時に,私の人生も変わったのかも知れない。時代も 場所も異なり,個々に状況も違い,いつも手探りであるが,設計演習やひいては授業内での体験に限らず, その様な人を動かしてくれる「魔法の言葉」を聞けるような体験をしたくて,今も教員を続けているのか も。  そうこうしている内に,齢も50。孔子曰く『五十にして天命を知る』であるが,平均寿命が80歳を超え る昨今では,10歳割引いたとして『四十にして惑わず』。いやいや,とてもじゃないが,その覚悟を得ら れていない心境である。『三十にして立つ』も甚だあやしいのは,割り切りが出来ていないのか時代のせ いなのか,はたまた努力不足で社会の役に立っている実感がないためか。しかし,30代での先に述べた体 験の影響を幾らか受けて,今の自分があるという意味では,「何とか立っている」ことぐらいはできてい るのかと慰める。  今は18歳で選挙権を得られる時代である一方,かつて「30歳成人説」という話を聞いたことがある。平 均寿命が延びかつ複雑な現代社会では,精神的自立や人生の選択などが遅めになっている,という内容だ ったと記憶している。昔の20歳成人と現在の30歳が釣り合うのだとすると,多くの大学生はいわゆる思春 期である。その時期に,学科では,回答が単純明快とは言えず,時に赤裸々な自己表現も求められる「建 築」を学修していることになる。しかも,発達心理学の分野では,そんな不安定な時期だからこそ,建設 的な人付き合いを覚え,小さなことでも何かを成し遂げられた,という有能感を味わうことも大事だとい う。そんな難題に簡単な答えはないだろうし,考え過ぎると息が詰まりそうだが,私なりに出来ることは, 学部・学科の教育目標を意識しつつも,「教育」という様な大それたことではなく,相互に動かし励まし 合いながら育つ「共育」かな,と思うと幾分余白が出来て気が楽になる。何事もより楽しく,またより苦 しく感じる可能性がある,思春期にあるとされる現在の大学生には,「心に火をつける」ことが出来れば 理想としつつ,少なくとも「心の火を消さない」接し方が出来ればと思う。  森氏は言う。『分からんことを楽しむのも,立派な能力です。』,また『若いうちから,もっとムダせ い,言うの。ムダがどれだけ身につくかで,教養が広がるんやからね。』と。若くはないかも知れないけ れど,成長が鈍く未熟で,移り気な私には,森氏の言葉はやはり心に響く「魔法の言葉」である。