ベルリンの壁

教授 濱田幸雄

 2009年11月9日,ベルリンの壁が崩壊してちょうど20年が経った。日本のメディアの扱い はそれほど大きなものではなかったように感じたが,実際に壁を越えた経験を持つ私にとっ ては,月日が流れるほど,この壁の崩壊の意味は大きくなっている。  大学院2年の夏,私は国際学会での発表の機会を与えられた。海外旅行は始めてのこと であり,テクニカルツアーを組んでいただき,ドイツ,フランスの大学をはじめとする研 究機関を訪問した。その中で,フランクフルトからプロペラ機に乗って西ベルリンに入り, 日帰り観光ツアーで東ベルリンを訪問した。西ベルリンで東西冷戦のレクチャーを受け, 実際に鉄の壁を見たときの記憶は鮮明である。コンクリートの塀に,白い花の束が立てか けられていた。一週間ほど前,射殺された人に手向けられたものという説明を受けた。翌 日,観光ツアーで西から東に入ったが,国境線を越えると黒い皮ジャンの痩せた女性がバ スに乗り込み,写真撮影は許可した場所のみで行うことと,低い声が車内の隅々まで伝わっ た。雨模様の天気,商品のないガラスケースが今も目の前に浮かんでくる。  永遠に存在すると思われたこの壁があっけなく崩壊したのは,1989年11月9日である。 正確には,この日は海外旅行自由化法案が発表された日であり,私たちがテレビで目にす る光景,つまり人々が壁によじ登り,鉄製ハンマーで固いコンクリートの塊をたたくのは 翌10日のことである。  ではどうして壁は壊れたのか。各種報道を総合すれば,ゴルバチョフによるペレストロ イカ政策が推進された結果,東欧諸国においても民主化の流れが確定的となり,1989年 ポーランドで自由選挙が実施された。東ドイツ国内においても,民主化と長期政権への不 満を示す大規模なデモが発生し,政権の根底が揺すられたところに,思わぬ偶然が最後の 引き金を引いたといったところだろうが,本当のところは分からない。冷戦の象徴,越え られないものの代名詞であった壁の崩壊後,世界の予想に反して,東西ドイツは1990年10 月3日に正式に統一された。  昨年の7月,私は再びベルリンを訪れる機会を得た。あれほど遠く感じたブランデンブ ルク門からタワーまでは,歩いて30分ほどの距離であった。陽光に輝く街路樹の道を戻り, ポツダム広場に向かった。ベルリンフィルのコンサートホールがまず視界に入ってくる。 黄土色の外壁は以前のまま変わりなく,緊張感だけを味わったコンサートが蘇ってくる。 ポツダム広場には,再開発の目玉として建設され、ドイツ現代建築の最高峰として注目を 浴びるソニーセンターがあり,観光名所のひとつとなっている。あの壁はどこにいってし まったのか。近くを歩き回ると,地下鉄駅の入り口近くに数点のピースが残っていた。  人間社会は予想できないことで成り立っている。昨年9月のリーマンショック以来,世 界は同時不況に陥り,日本が受けた影響は大きいようである。それは,来春の大卒就職内 定率が6割台ということからも容易に推定される。  さらに,あっという間に政権交代が実現し,コンクリートから人へ,のキャッチコピー が世に受けている。建築に係る私たちに未来はあるのだろうか,就職はできるのだろうか。 こういう時代だからこそ,求められる人物像があると声を大きくして言いたい。第1は, 理想と強い責任感を併せ持つ人であろう。日本の著名な建築家が模型作りのアルバイトを 募ったところ,多くの学生がやってきたが,2日目には断わりもなく数人が来なくなった という。これらの学生が特別な存在なのではなく,一定の割合を占めるとすれば,今日の 多くの学生が就職浪人となっても仕方ないと思える。 第2は,自由人である技術者であろう。大学の講義で,社会で役に立ちそうもないつまら ない話をなぜ聞かなければならないのか。それは,抽象的な思考能力を持つ人材を育てた いからである。現実に目の前にあることだけを判断材料としたのでは。犬や猫と何ら変わ りはない。多くの知識を持つ人は,無い人より自由な発想ができるはずである。何が起こ るか予想できない社会で頼りになるのは,固定観念に囚われず自由な発想ができる人だと 思う。  蛇足ついでにもうひとつ。ベルリンの壁というと,私は「ベルリン・天使の詩」という 映画を思い出す。1987年公開のこの映画は,カンヌ映画祭監督賞を始めとする各種映画賞 を獲得しているので,見た方も多いと思う。ピーター・フォークの演技力もさることなが ら,ベルリンの壁がなければ,この映画は成立しなかったのではないだろうか。未来惑星 ザルドスでも,日本の首都高速が重要なメッセージを放っている。建築物,都市空間は現 在だけのものではなく,未来や時空を映す鏡でもある。固定観念で対応できるはずがない。