『人を幸せにする声・音』

助教授 濱田 幸雄 

 先日のある研究委員会でこんなやり取りがありました。「子供が押入れから飛び下り たり,椅子から飛び下りたりするのは住まい方の問題であって,そのときの音がうるさ いから性能が出ていないなどというのは音響性能の範疇を超えた話だと思いますが…。」 「確かに。でも現実問題としてクレームが出る以上,対応せざるをえないでしょう。」 ここで言う音響性能とは,重量床衝撃音の遮断性能のことです。日本では,建物の重量 床衝撃音遮断性能の測定に,軽自動車のタイヤを自由落下させる方法が採用されていま す。この測定法の根拠が,子供が飛び下りたとき,直下室で発生する音に聞いた感じが 似ていること,さらに構造体の床剛性を含めた性能評価ができるということにあるため, こんなやりとりが行われるのです。タイヤを自由落下させる方法が正式に規定されたの は1978年(JISA1418『床衝撃音レベルの測定法』)のこと。この10年前に「騒音規制法」, 7年遅れて1975年に「新幹線鉄道に係わる環境基準」ができたことを考えれば,日本社 会がどんな状況のときか,想像できるのではないでしょうか。世はまさに高度経済成長 の真っ只中にあり,都市部への急激な人口集中に対応するため,大規模な住宅団地が建 設された頃に当たります。当然質より量の確保が求められ,床スラブの厚さが120oと いった建物もあったようです。床面積も狭く,天井高も低い住宅の中で,多くの人々は 順調に上昇する賃金をあてにして,将来の豊かな老後を夢見て働いていたのでしょう。 このような社会状況の中で制定された規格が,現在の多様化したライフスタイルで成り 立つ社会に対応できるはずが無いのも事実です。さらに,集合住宅で生まれ育った世代 が親になることにより,集合住宅における住まい方のルールが,やっと社会的に確立さ れてきたこと,つまり現在の社会がそれだけ成熟してきたことが冒頭の発言の前提にあ ると考えられます。  もともと日本人は音に対する感性の優れた民族であると言われます。現存最古の歌集 である万葉集をみても,風の音や動物の足音といった自然が生み出す音から,響かない 楽器の音にまで耳を澄ませ,喜びや悲しみ,切ない想いが歌われています。万葉集も, 他の詩歌集と同様,音韻を使って感情の昂ぶりを効果的に表現しています。つまり,声 に出して歌うことを前提として作られている訳で,そういった意味では万葉の作者は現 代の作詞家に近い存在といえるでしよう。  もうひとつ,日本人と音・声の関係を考える上で,重要な要素があります。それは, 私たち日本人は,言葉に束縛されることが日常生活の場面で非常に多いということです。 一例をあげましょう。結婚式では,きれる,わかれるといった言葉はまず聞かないでしょ う。ひたすらおめでたい言葉を並べるのが日本のお祝いの席での常識となっているので す。さらに私たちが意識しなければいけないのは,往々にして言葉とその言葉を発した 人の人格を同一に見がちだということです。討論をしていれば,時には一般論を用いて, きついことを反対意見として述べなければならいこともあります。ところが多くの日本 人は,あの人はああいう考え方をする人なのだとレッテルを貼ってしまいます。これで は,自由な意見が出ないのも当然でしょう。言葉によるに日常生活の呪縛,言葉と人格 の同一視について,井沢元彦氏は「言霊」という表現を用いて,多くの著書を出してい ますので,興味のある方はお読みになってください。  本来言葉は,人と人のコミュニケーションを円滑にするために用いられるべきもので す。言葉,正確には言語がない原始時代から多くの時間が流れて言語体系が発達し,発 声器官の発達と合わせて,より多くの情報を言葉に乗せて伝えられるようになりました。 言葉の発達と脳の発達は密接な関係があります。言葉を理解するために脳が発達し,発 達した脳がより複雑な構文を話す事を可能にし,ついには現実に目の前に見えないこと を想像する能力が生まれたと考えられます。  現在音響学の分野では,「社会音響学」,「環境音響学」という新しい名称の研究分野 が提唱されています。定義は難しいのですが,個人的には本来人問社会がコミュニケー ションツールとして使っていた声・音本来の機能を現代社会の中でも生かそうというこ とだと思います。音には,人々が場所と時間を共有しているという感覚を生じさせる効 果があります。お祭り,スポーツの祭典における歓声は最高の演出といえます。現代社 会においては,個人が楽しむ音を伝える技術は飛躍的に発展しています。その反面,コ ミュニケーションを円滑にし,相互理解を深める声・音はどんどん少なくなっています。 建築は「幸せの器」といわれますが,そこに盛るものは,人と人との暖かい会話であり, こころ弾ませる音であるべきです。  世の中,雑音が満ち溢れています。卒業生の皆さん,大学生活で培った真理を探求す る態度で,自分を幸せにする声をきちんと聞き分けて,自分の周りを幸せにする会話を していただきたい。ご卒業を心よりお祝いし,ご健康をお祈りいたします。